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「双頭の鷲」観劇 [┣演劇]

先日、観劇した「黒蜥蜴」に触発され、またまた美輪さまのステージを観劇。
今回の「双頭の鷲」は、フランスの劇作家、ジャン・コクトーの戯曲で、主役の王妃には、かのオーストリー皇后エリザベートのイメージが重ねられている。
20世紀ヨーロッパの人なら、特に説明しなくても、この物語とタイトルの「双頭の鷲」によってエリザベートであることは十分理解できると思うが、ここは21世紀の日本なので、宣伝等ではエリザベートがモデルであると書かれている。
私もエリザベートのつもりでいたら、エリザベートっぽいキャラクターの王妃を主人公にした、まったく別の物語だった。

「双頭の鷲」
作:ジャン・コクトー
翻訳:池田弘太郎
演出:美輪明宏
出演:美輪明宏、木村彰吾、長谷川初範、夏樹陽子、柄沢次郎、大山峻護

まず、幕が開くと、舞台装置がすごくて圧倒される。
まさに、ハプスブルクといった重厚な室内装飾。
王妃の側近である、エディット(夏樹陽子)とフェリックス(柄沢次郎)の会話から物語は始まる。 

翻訳の池田弘太郎氏は、美輪さまの演じる「愛の賛歌」を翻訳したり、「セバスチャンの殉教」を三島由紀夫と共訳したり…と、三島・美輪サイドのお仕事が多い方なのかな?

なんといっても、「王妃殿下」という言葉への違和感を感じる。
妃殿下という言葉があるから、ついついそう書いてしまったのだろうが、王が陛下なのだから、王妃も陛下でなくてはおかしい。
なのにどうして、王妃と陛下の間に違和感があるかというと、同じキサキでも、「妃」は、「后」より一段下の扱いになるからだ。一人の皇帝に多くのキサキがいた場合、后が正妻で妃は側室である。また、皇太子や王子の妻は「妃」と書かれる。また「王」は、中国では中国皇帝に朝貢する辺境地を治める者、日本では古くは天皇の孫(子は親王)を指す場合もあり、この場合の王の妻は王妃でいいが、英国王などその国の最高位にあるKINGの訳語としての「王」の妻は王后と書く方がより正確なのではないだろうか?
「ベルばら」では、マリー・アントワネットは正式な場では女王陛下、または王后陛下と呼ばれている。フランス最高位にある王の后だから、正しい訳語だと思うし、王后なら「陛下」との馴染みもいい。
ちなみに、女王陛下という言葉は、たとえば現在の英国エリザベス女王のように、女性で王位にあるものを指す言葉ではないか、という考え方もあるだろうが、QUEENという言葉が、女王と王后の両方に使われるため、その訳語としてあり得るのだろう。
美輪さま演出は耽美だし、長丁場を飽きさせないセリフ術はすごいと思うが、いけてないセリフを変更してはくださらないらしい。まあ、三島由紀夫先生と交流の深かった美輪さまだけに、脚本に手を入れることは禁忌と思っておられるのだろう。

さて、この物語では、既に国王が亡くなっていて、王妃が生きているという状況が明らかになる。
(エリザベートの死後もフランツ・ヨーゼフは生きていたが。)

王妃の側近である、エディット・ド・ベルク男爵令嬢とフェリックス・ド・ヴィルレンシュタイン公爵は、かつて公爵が男爵令嬢を身分違いで婚約破棄した過去があるため、わだかまっている。また公爵は、王妃を心から崇拝しているが、男爵令嬢は、警視総監のスパイだったりして、二人は現在の立場も違う。
そういえば、シュヴァルツェンヴェルク公爵の名前がフェリックスだったのだが、彼がモデルなんだろうか?名字の前に「ド」がついているのは、作者のコクトーがフランス人のせいだろうか?

王妃は、国王の命日に国王の霊を招いてディナーをしている。
彼女の独白によると、21歳で結婚したその成婚パレードで国王は暗殺されたらしい。それから10年、嵐の夜、この城に侵入者があった。
その男の名は、スタニスラス。25歳。詩人。無政府主義者のこの男は、王妃暗殺を企み、この城にやってきたが、警察に包囲され、窓の開いていた王妃の部屋に現れる。自分を暗殺しようとしている男と知りつつ、王妃は、彼をかくまう。
それは自分の目的に必要な男だったから。そして、彼が、亡き国王・フレデリックに瓜二つだったから。

一幕での王妃は、婚礼の衣装に身を包んで、国王の霊を招いたが、基本、彼女は喪服で暮らしているらしい。晩年のエリザベートのように。

王妃は、読書係のエディットをクビにして、スタニスラスを読書係に任命する。
王妃とスタニスラスは、詩を通じて魂を通わせる。
やがて、反政府主義者であるスタニスラスは、今の政治がよくないのは、王妃が親政を行わないからだと言い、王妃こそこの国の政治を行うべきだと言う。
国王が亡くなってからずっと厭世的に暮らしていた王妃は、このスタニスラスの言葉で、奮起する。
と、同時に、亡き国王にそっくりなスタニスラスに王妃は心を寄せ、スタニスラスも王妃を暗殺したいほど憎んでいたのは彼女への思慕の裏返しだったので、二人は愛し合うようになる。

一方、王妃に国政に参加してほしくない人々もいる。
警視総監フォエーン伯爵(長谷川初範)は、その筆頭だったりする。フォエーンの策略によって、スタニスラスは王妃を助けるために自ら毒を飲む。
スタニスラスが毒を飲んだことを知り、すべての未来を失った王妃は、ただ死ぬためだけに、スタニスラスに罵詈雑言を浴びせる。そして、とうとうスタニスラスは、王妃を刺す。(元々、王妃は死ぬために暗殺者であるスタニスラスを側近く置いたのだった)命が長くないことを知って、王妃はようやく、スタニスラスに真実を告げ、よく刺してくれた、と喜ぶ。
王妃の閲兵を待つ人々に向かってバルコニーから手を振り、王妃は死ぬ。
スタニスラスは、王妃の真意を知り、側に近づこうとして力尽き、派手に階段を落ちて死んでいく。

…とまあ、こんな物語。
「黒蜥蜴」はイマイチな出演者が多くて興を削がれた感が強かったが、今回は、精鋭6人の出演者なので、満足な出来。善人を絵に描いたような公爵役の柄沢、権力欲に取りつかれた警視総監の長谷川、両方ともピッタリと嵌まる演技である上に、ちゃんと貴族として成立しているのがいい。
下級貴族のエディット、平民のスタニスラスも、ちゃんとその階級に見える。
その上で、圧倒的なオーラを持つ王妃の美輪が、身分とか階級にとらわれない奔放な演技を見せるあたりの対比が面白かった。

物語は、本当に突っ込みどころ満載で、これはコクトーのせいなのか、それとも誤訳なのかよくわからないが、10年間も国王のいない国ってどうなのよ。でもって、皇太子って誰の子なの?結婚式が終わって、初夜より前に王様は亡くなってるのに。とりえあえず、皇太子がいるなら、とっとと即位させればいいじゃない!などなど。
それでも突っ込まれずに上演され続けているのは、これがエリザベートの物語だと、全員が認識しているからなんだろうなーと思った。豪華な舞台と、詩の朗読を聴いているようなセリフの応酬。突っ込みどころ満載でも、再演されたら、また観に行きたいな~と思った。

ちなみに、階段を背中からズドドドド…と落ちる、いわゆる「階段落ち」は、初演でスタニスラスを演じたジャン・マレーもやっているそうで、これまで怪我をした人はいないらしい。緋毛氈が敷き詰めてあるとはいえ、振り向かずに背中から落ちているのに、すごいことだ。
(だからって、宝塚でこれをやってほしいとは、思わないですがね!)


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