So-net無料ブログ作成
検索選択

「エレファント・ソング」観劇 [┣演劇]

「エレファント・ソング」

作:ニコラス・ビヨン
翻訳:吉原豊司
演出:扇田拓也

美術:内山勉
照明:桜井真澄
照明操作:松本由美
音響:井出比呂之
衣裳:樋口藍
舞台監督:小島とら
制作担当:栗原暢隆
プロデューサー:名取敏行
製作:名取事務所

とある精神病院の医師の診察室を舞台にしたサスペンス

めったにここにはやってこない院長、グリーンバーグ(藤田宗久)がやってきて、看護師のミス・ピーターソン(安藤みどり)は緊張を強いられている。
この部屋の主、医師のジェームス・ローレンスが失踪した件について、理由を知っていると思われる患者、マイケル佐川和正)にインタビューするために、グリーンバーグはやってきた。が、マイケルはとても特殊な患者らしい。ピーターソンは、院長に何度も警告するが、彼女の見た目(かなりのおデブさんらしい)が災いしてか、あまり効果を発揮していない。
連れてこられたマイケルは、院長を自分のペースに巻き込み、ローレンス医師を殺してロッカーに遺棄したとか、彼とはホモ・セクシュアルの関係だったとか、本当か嘘かわからない言葉で院長を翻弄する。挙句は、ローレンス医師が幼児性愛者であったと告発する。
院長は、そんなマイケルを脅したりすかしたりしながら、自分の優位を崩さない範囲で信頼関係を作ることに成功する。そして、カルテを見ようとするとマイケルが過剰に反応することを利用して、彼から様々な話を聞き出す。
彼が、世界的に有名なオペラ歌手、アマンダ・セント-ジェームスの一人息子であること。彼女はある男と24時間だけ恋をして、その結果、マイケルを産んだこと。彼が8歳の時、一度だけ父親の住むアフリカに行ったこと。父に会いたかったから。そこで、父はマイケルをサファリに連れ出した。一頭のゾウを父親が撃ち殺し、それが彼の生涯のトラウマとなった。
帰国したマイケルに、母は、ゾウのぬいぐるみをプレゼントし、彼のためだけに『エレファント・ソング』という数え歌を歌ってくれた。
それは、マイケルに対する唯一の母親らしい行動だった。
マイケルは、思春期には地中海クラブで船旅を楽しみ、その際、幼児性愛者(年齢的には少年愛かも[exclamation&question])らに性的暴行を受けていた。そして、現在、彼はゲイを自覚している。
その少しあとに、マイケルは母親を亡くしている。コンサートで失敗し、自殺を図った母は、マイケルが見つけた時はまだ生きていた。しかし、彼女のダイイングメッセージを聞いたマイケルは、彼女を救うための手段は取らず、彼女のそばでエレファント・ソングを歌い続け、28になったところで、母は死んだ。母を見殺しにしたマイケルの態度が問題になり、彼は、精神病院へと送られることになった。そして、今も彼は精神病院で暮らしている。
担当医師は何人も変わった。そして、失踪したローレンス医師は、マイケルを愛していると言った。しかし、彼は、ベッドへ行こうと誘うマイケルを拒絶した。患者と担当医師だったからか、彼への愛を性愛を含めて考えることができかなったからか…は、わからない。
そんなローレンス医師のところに、彼のおばさん(伯母か叔母かは不明)が倒れたという連絡が入った。ローレンスは、慌てて出発した。マイケルに院長宛のメモを渡して。つまり、ローレンスの失踪に事件性はなかったのだ、ということが、ラスト付近でようやく明らかになる。

マイケルの目的、それは、すべてを話す代わりに得られるチョコレートだった。彼はチョコレートアレルギーだったのだ。周到な計画の果てに訪れる突然の幕切れ。
圧倒された。すごく面白かった。こんな演劇が上演されているカナダが羨ましい[黒ハート]


三越劇場「びっくり箱」観劇 [┣演劇]

向田邦子「びっくり箱」「重役読本」

作:向田邦子

「びっくり箱」脚本:岡本さとる
「びっくり箱」演出、「重役読本」構成・演出:一井久司

美術:齋藤浩樹、加藤藍子
照明:阿部典夫
音楽:高橋たかふみ
音響・効果:秦大介
舞台監督:小菅良隆
演出助手:竹内一貴
制作:岡本多鶴、佐野仁志

演出部:上間幸徳
音響操作:冨田聡
照明:A Project
音響:東京演劇音響研究所
衣裳・大道具・小道具:東宝舞台
声の出演(「びっくり箱」):中山由紀
ヘアメイク(名取裕子):橋本靖男
ヘアメイク:田中エミ
公演支配人:大島隆弘

製作:アーティストジャパン

向田邦子の「びっくり箱」と初期のエッセイ「重役読本」を上演するという企画に、元宝塚の帆風成海が出演する…というので、行ってきました!
結論…女優・帆風成海はいい!!!

作品は、向田邦子の生きていた時代が舞台になっているから、ざっと今から40年位前の日本。それを現代に置き換えて描かれている。なので、少しばかり古風なドラマにはなっている。
厚子(帆風成海)は、恋人の良司(山本一慶)と一緒に故郷に向かっている。実は彼女は妊娠しているのだが、彼はまだ知らない。
厚子は携帯で友人の「ヨウコ」に電話をしているのだが、そこでプロポーズされるかどうかは「五分五分」だと語っている。そうかな[exclamation&question]男が女の親に会うためにわざわざ列車に乗る時点で、100%プロポーズだと思うのだが。
列車の中で、厚子はしきりに彼が母のとし江(名取裕子)に気に入られるかを気にしている。なぜならとし江は、夫を亡くして以来十年間、清く正しく美しく生きてきた人…だから。
ところが、娘が母に手紙で見栄を張っていたように、母も娘に見栄を張っていた。実は、ここ数年来、近所に住む5歳年下の男性、友行(喜多村緑郎)といい仲になっていて、近所でも公認の関係だった。そこへ厚子がいきなり戻ってきたから大変。母と娘は、自分を棚に上げて相手を罵り始める。
母と娘、そして2組のカップルはいったいどうなるのか…そんな物語が「びっくり箱」。
ラスト近く、良司が財布をなくした場面の顛末が印象的。ここで、とし江は、一瞬にして女から母に戻る。岡惚れしている自身の目ではなく、世間的な目で(ある意味偏見で)“夫”を見て、財布を彼がどうにかしたと思いこむ。そして、事実(良司が喫茶店に忘れてきた)が分かった時、疑ったことだけがそこに残り、彼女は、すべてを失ったと思う。その流れが切ない。
しかし、友行の心は海よりも広かった。
びっくり箱が二人の本音を繋げてくれる展開がやさしい
ほかにも、母子の語らいの場面で、出されたワインをさりげなく持ちながらも、決して飲まない厚子、、、などの見せ方もうまいなと思った。
母でありながら、女としての現役感バリバリな、とし江を演じる名取の存在感が素晴らしい。そして大女優と丁々発止一歩も引かない新人女優らしからぬ帆風の演技に感動した。唯一、スカートの捌き方が雑で、どうしてそんなに足が見えるんだ[exclamation&question]と思ったりはしたものの、それ以外は、娘であり恋する妙齢の女性だった。
ふんわりと女性たちを包み込む柔らかさのある喜多村と、イケメンで心優しい青年を好演した山本、そしてこういう舞台を成り立たせるために欠かせない存在としての仲本工事素晴らしい座組みだと思った。
朗読「重役読本」も、めちゃめちゃ面白かった[黒ハート]
向田さんは職業婦人だったが、そういう自分を決して肯定的には見ていらっしゃらなかったんだなーという気がする。重役とその奥様たち、そして部下たちのエピソードが、性差を是認する社会構造の中で、それを肯定して生きて行く人々の物語として面白く描かれている。もし向田さんが御存命だったら、今の世の中をどうご覧になっていたのか…と、ふと思った。
新しい女性の生き方を素晴らしいと思ってくださったのか、それとも、小言ばあさんになっていたのか…。
テーマソング的に「寺内貫太郎一家」のテーマ曲が使われていたとか。「昭和のホームドラマみたいな曲だな」と思ったら、まさに。

ほのぼのとした時代だったなぁ。もう戻れないけど。
そういう古い部分をさりげなく換骨奪胎している脚本が素晴らしかった。あと、喜多村さんは、テレビドラマにもどんどん進出したらいいんじゃないか…と思った。

とにもかくにも、ホタテ最高[黒ハート]
朗読の時のベージュのパンツスーツも可愛かったです[かわいい]


お勢登場 [┣演劇]

「磁場」の倉持裕さんが江戸川乱歩の8本の短編小説を一本のドラマに構成した「お勢登場」を観劇してきました。

やっぱり、面白いぞ、倉持作品[exclamation×2]

お勢役は、主演の黒木華ちゃんにピッタリ。でも、黒木さん、実は、アテガキされるのが心地よくないタイプなのかな~という気もした。倉持さんは決してアテガキしたわけではないのだろうけど、実は本質突いちゃってる的な…。そういう意味で、今は、映像の方で観ていたい人かもしれない。

倉持さん、今年から来年にかけてすごいラインアップなんだけど…これは、全部追いたいかも…。


「磁場」終わりましたね! [┣演劇]

2016年~2017年、足かけ2年の大作(ちょっと言い過ぎ[exclamation&question])、「磁場」が無事、千秋楽を迎えました。椿1.jpgというわけで、なかなかセクシーだった、椿さんの衣装(1)を描いてみました。スカート丈はそんなに短くないものの、スリットが深くて、けっこう脚が見えてました[ぴかぴか(新しい)]

さて、祐飛さんが出演した作品については、基本的に「大空祐飛」カテゴリーで、祐飛さん中心の目線で語っていくことにしているので、その他の出演者の皆さんについての熱い思いとか、キャラクターについて思ったことなどは、先にこちらに書かせていただこうと思います。
あと、今回、登場人物の年代が見事にバラバラで、各世代を代表しているな…と感じたので、そこも書いておきますね。(とはいえ、俳優の実年齢はわりと近いとこに固まってるとか。ま、舞台ですからね。)

竹中直人さん(加賀谷役)
加賀谷さんは60代でしょうね。もう老人です。だからこその、執着みたいなものがモンスターのように怖い役でした。
こんな奇才な方に呼んでいただけて、絡んでお芝居させていただけて、ファンとして光栄すぎる…[黒ハート]
いや、もう、すごい…怖い…でも、面白い。得体が知れない感がたまらない。
千秋楽後に友人と話した時、加賀谷さんの正体について、全然別の見解が出ていて…ああ、面白いなぁ~と思ったんだけど、あの得体の知れなさを、裏社会の人、と位置付けるか、実業界の大物と位置付けるかで、ずいぶんと見方が違うのかな…と思った。(どっちでも解釈は可能だと思う)
でも、加賀谷さんとは絶対にかかわりたくないけど、竹中さんは、ほんとに、チャーミングな方。カーテンコールでスキップしている姿に見惚れてました[るんるん]

田口トモロヲさん(黒須監督役)
黒須監督は50代後半かな、映画監督として、一番乗っている時期と言えるでしょう。
クセのある役をやらせたら天下一品な田口さん。今回も、やっぱりクセのある映画監督。すごく印象的だった。
初対面から、加賀谷さんと黒須監督は、合わないオーラが出ていて、その噛み合わなかった歯車が、どんどん食い違っていき…黒須監督は、自分は負けないと思っていたけど…相手が悪かった、というところでしょうか。
短い期間で白髪になるほどの何かを経て、加賀谷さんに対して従順なヒトになってしまった黒須監督。その裏になにがあったのか…それゆえに、加賀谷さんが表社会の人じゃない…という判断も分かる気がする。
その強気⇒従順の絶妙な塩梅が、さすが田口さんでした。

渡部豪太さん(柳井役)
柳井さんは、まだ20代だと思う。いっぱい夢があって、しかも、すべて早くに叶ってきたラッキーボーイ。
で、今回の加賀谷さんのターゲット。
だいたいすごい人って一瞬にして相手の本質を見抜くというか、もう最初の握手の時点で、あきらかに狙われている。
最初は、その好意を素直に受け止めている。父親と同世代か、少し上かもしれない加賀谷さんには、敬意も感じている。
題材に対して、のめり込みやすい、というところは、椿との共通点でもある。たぶん、加賀谷さんは、そういう人を求めている。クールな人、というか、一歩引いている人、俯瞰している人は対象に選ばないのね。
その一方、柳井は、書きたいことがすごくハッキリしていて、それが見えてくるまでは書けない人。書きたくないことを書けない人。取り込まれてしまった柳井の未来は暗い…。
微妙な表情がすごくいい!一枚も書けてない時の顔がもう…!
あと、徹夜明けの芝居が超リアルだった。

長谷川朝晴さん(飯室役)
飯室さんは、この芝居の中で唯一年齢を明らかにしている人。先週45歳になったそうです。
加賀谷さんには、今回巻き込まれるメンバーの中では一番最初に会っていて、そもそもこの人がマコト・ヒライの映画を作りたいとか言ったから、今回の悲劇が起った。
すごくギョーカイ人な雰囲気がたまらない。
ってか、この所属事務所サイトの本人プロフィール画像がツボすぎる。めっちゃ好み[黒ハート]
既に足を洗っておりますが、私も映画業界にちょこっとだけ関わったことがあるから、映画プロデューサーっていう人種がすごく表現されていて、笑ったのなんの…
プロデューサーって企画を立て、予算を握って、映画を最後まで難破することなく作り上げる責任者なわけだけど、決して芸術家ではないのね。いろんなタイプの人がいて、夢が膨らんじゃうタイプだと、予算も膨らんで金策に走り回るし、予算厳守のプロデューサーだと、低予算を挽回するためのとんでもアイデアでしょぼい映画ができちゃったり…[爆弾]名画ができるって、ひとつの奇跡なのかなって思う。ましてヒットするなんてもう…[爆弾][爆弾][爆弾]
でも、プロデューサーは、今日も口八丁手八丁で、お金出してくれる人を見つけてくるんです。
さて、長谷川さんは、「真田丸」で、伊達政宗を演じている。今回の「真田丸」、独り歩きしている武将のイメージをぶち壊すキャラクターも多く登場して、私はすごくそれに惹かれたのだが、その一人が政宗だった。
強弱・剛柔が交互に出てくる…そして、空気読めたり読めなかったり、どっちなんだ[exclamation&question]っていう政宗は、長谷川さんという俳優さんのお得意のキャラクターだったのかーと、この芝居で納得した次第。また一人、お気に入りの俳優さんができてしまいました。

菅原永二さん(赤沢役)
20年前から加賀谷さんに付いているので、40代でしょうね。
世の中には、自分より上の人間(ほぼ加賀谷さん)と下の人間しかいない、という価値観の持ち主。
加賀谷さんには従順で、その本意を汲み、あえて加賀谷さんの代わりに泥を被ることも辞さない。一方、それ以外の人に対しては、加賀谷さんの代理人のように振舞い、横柄であるし、存在すら認めなかったりする。
でも本当は誰よりも人生の敗北者なんじゃないかな。ま、楽しそうだからいいけど。
横柄な時の声がツボ。台詞の間も独特で、ほんと面白い。椿さんとは、どこか一蓮托生なんだけど、互いに「あいつこそは人生の敗北者だ」って思っていそう。

玉置孝匡さん(時田役)
40代でしょうね。労働運動のリーダー的存在なので。
経営者が変わってしまったホテルの中で、アイデンティティーを失いかけているスタッフ。でも、インペリアルスイートの担当になったということは、絶対ポジションアップだよね[exclamation&question]それでも前の方がよかったんだ[exclamation]
「前の方がよかった!」ということに拘泥するが、仕事への正しい忠実性に欠けるところが面白い。部屋に置かれた絵画の作者を知らないくせに、死守しました、と言い張ったり…みたいなとこね。
今日用意できる軽食、「サンドイッチと…」の後は、当初アドリブだったような気がするが、絵画の作者について聞かれた後の、「確認して参ります」の間が最高[ぴかぴか(新しい)]で、爆笑を誘っていたためか、公演後半は、ここにさらに「確認して参ります」を入れて笑いを増幅していた。
赤沢との攻防も笑わせたが、本多劇場後半から、やや簡略化されていた。ま、大人のホテルマンとして、最重要な顧客に対して敵意むき出しはおかしいかな。毎回、後転が鮮やかでした[ぴかぴか(新しい)]

黒田大輔さん(姫野役)
30歳前後かな。柳井よりは年上だけど、タメ口きける範囲の年齢差ってとこで。
小劇団の団員だなーという雰囲気がプンプンする。でも、あんまり努力したいタイプではないのね。
セット(のようなでかいもの)を見ると、みんなの力でどうにか動かそうとか思ってしまうところが、まさにキャストとスタッフ両方こなさなきゃならない小劇団ならでは、の習い性かな。
その延長線上で「鉄かー」ってのはすごいよくわかる。
演劇界のヒトなら、「日差しの女」より「鉄かー」が正しい。それを許せない柳井は、この時点でもう演劇界のヒトではなくなっている。もう、磁場に取り込まれているのだ。
加賀谷さんが姫野を脚本家に指名したのは、彼を殺させるためではないと思う。でも、姫野に書かせる気があったとも思わない。結局、作者の中で、この結末は唯一無二のものだから、加賀谷さんの真意なんて、意味はないけれども。
でも、いるよね、こういういい人なんだけど、ダメな人って…。でも、憎めなくて好きです。
田中邦衛さんの真似してるのかな、って思うところがあちこちにあって、それも面白かった。

こんな多彩なメンバーの中で紅一点として、異彩を放っていた祐飛さんについて、は、ゆっくり書いていきたいと思います。


「オフェリアと影の一座」観劇 [┣演劇]

りゅーとぴあプロデュース
「オフェリアと影の一座」

原作:ミヒャエル・エンデ(岩波書店刊)
上演台本:笹部博司(りゅーとぴあ演劇部門芸術監督)
演出:小野寺修二

音楽:野瀬珠美
美術:松岡泉
照明:吉本有輝子
音響:池田野歩
衣裳:堂本教子
ヘアメイク:増田佳代
演出助手:石内詠子
舞台監督:矢島健

小さな町の小さな劇場でプロンプターをしていたオフェリアという名のおばあさんが、あるじを持たない“影”たちと一緒に劇団を作り、大評判をとる…というミヒャエル・エンデの作品が舞台化された。
オフェリアは、生まれた時から、両親が見た“将来は女優に”という夢のもと、世界で一番有名な芝居のヒロインの名前を付けられた。しかし、彼女は生まれつきとても声が小さく、女優にはなれなかった。その代わり、彼女は、ぴったりの職業を見つけた。プロンプター。劇場に響き渡る声ではないからこそ、役者にだけ届き、芝居を動かせる。
しかし、世の中に映画が生まれ、交通網が発達すると、小さな町の劇場は、存在価値を失ってしまう。人々は、スターを見るために映画館に行き、もっと大がかりな演劇を見るために大きな都市へ行く。劇場は閉鎖され、オフェリアさんは失職してしまった。
やさしいオフェリアさんは、閉鎖された劇場に、あるじのいない影を見つけ、一緒に暮らすことにする。噂は噂を呼び、同じような境遇の影たちがたくさんオフェリアさんのもとに集まった。彼らは、オフェリアさんの鞄の中で暮らしていたが、しょっちゅう仲たがいをしていた。
オフェリアさんは、プロンプター時代にそらんじていた芝居の台詞を影たちに教えるようになる。影たちは協力して演劇を始める。そして、オフェリアさんは、彼らの演劇を見て楽しんでいたのだが、ある日、アパートの家賃が2倍になってしまい(どうやら、影たちの騒ぎが近所の噂になっていたらしい)、途方に暮れる。そんなオフェリアさんを助けるために、影たちが立ちあがった。
こうして誕生した“オフェリアと影の一座”は次第に大評判をとり、オフェリアさんは幸福な老後を過ごすことができた…というようなストーリー。
実際に、一座の上演作品として「トゥーランドット」「オンディーヌ」が劇中劇として披露される。「トゥーランドット」は、オペラ作品として、「オンディーヌ」はマイム・バレエ作品として。

オフェリア役には、白石加代子が配され、圧倒的な存在感を示す。全然声が小さいとは思えないが、そもそも女優が声小さいとかありえないので、そこはしょうがない。
影たちは、顔に影のラインを引き、さまざまな役を演じる。そもそもの影の演劇が始まる前の、オフェリアの両親や周囲の人々も影が演じている。そのメンバーの異色さがすごい。そしてそこに、4名の元タカラジェンヌがいることに、大きな意義を感じた[黒ハート]
旺なつき、彩吹真央は、男役もさらりとこなす。彩吹は、トゥーランドットのカラフ王子役も演じている。新潟までファンが大挙訪れたのも納得のカラフ様だった。
は、男役も女役も歌いこなす。その音域の広さ、声の美しさに圧倒される。また、年齢を重ねた美しさに心を奪われた。女性はより女性らしく、男性は誰よりもかっこよく…。いいな、年を重ねた男役って…と思った。
彩乃かなみのトゥーランドットは圧巻。女であるがゆえに傷つけられ、苛まれてきたすべての女性のために、心を閉ざし、永遠に誰とも結婚しない誓いを立てている。そのために求婚してくる男達に3つの難問を突きつけ、答えられなければ彼らの命をうばうことに何の躊躇もない。
彼女が心を閉ざした動機が、やさしい気持ちであるがゆえに、そのかたくなさも、傲慢さではなく、張りつめた糸のように脆く危ういもので…ということが、とても伝わる歌唱であり、表情だった。
真瀬はるかのリューは、片思いの相手(カラフ)のために、命を捨てることをなんとも思わない強さと一途さを元男役とは信じられないような美しいソプラノで聴かせる。可憐な役が良く似合う。まさか、髭男子だったとはね[あせあせ(飛び散る汗)]
「トゥーランドット」は宝塚の実力を余すところなく見せつける、すばらしい劇中劇だった。
宝塚を知らない観客が、「さすが、宝塚。出身者は、みんな歌ウマなんだ」と信じ込むことだけが不安[爆弾]
「オンディーヌ」は、白石がオンディーヌ役と語りを演じ、ハンスに舘形比呂一、そして水の精としてのオンディーヌを辻田暁が演じた。
光と影の使い方が美しくて、布を使ったダンスも、ありがちだけど美しい。
とはいえ、オンディーヌ(白石)が、黒髪の上から、髪飾りのようなひと房の水色の髪の束をつけたくらいで、金髪というのは微妙な気がした。
シルク・ドゥ・ソレイユ出身のパフォーマー、フィリップ・エマールが、英語・フランス語。そしてカタコトの日本語を駆使して、よいインパクトを出していた。

オフェリアさんが最後に乗っていた車(?)に書かれていた一座の看板、《オフェーリアと影の一座》とある。オフェリアか、オフェーリアか、そこは、統一しようよ[パンチ]と思った。

“今日は何の日”
【12月6日】
実力制名人位となった第1期名人戦で、木村義雄が名人となった(1937=昭和12年)。


シェイクスピア花盛り [┣演劇]

「三代目、りちゃあど」は、東京芸術劇場のシアターウエストで上演されていた。そして、翌日観劇の「オフェリアと影の一座」は、同じ劇場のプレイハウスで上演されていた。両方ともシェイクスピア作品、ではないが、シェイクスピアがいなかったら誕生しない作品であることは確か。

そして、東京芸術劇場のポスター掲示を見てみれば…

シェイクスピア1.jpg シェイクスピア2.jpg

シェイクスピア3.jpg シェイクスピア4.jpg

すごいな、没後400年、シェイクスピアは今日も様々な形で演劇人のハートを刺激し続ける…

“今日は何の日”
【12月5日】
乃木希典将軍が、旅順・二〇三高地を占領する(1904=明治37年)。


「三代目、りちゃあど」観劇 [┣演劇]

東京芸術祭2016
芸劇オータムセレクション
「三代目、りちゃあど」

作:野田秀樹
ウィリアム・シェイクスピアリチャード三世」(小田島雄志訳)より

演出:オン・ケンセン

美術:加藤ちか
照明:スコット・ジェリンスキー
衣裳:矢内原充志
映像:高橋啓祐
音楽:山中透
ヘアメイク:中村兼也
音響:細越泰良
演出補:リサ・ポーター

(東京芸術劇場スタッフ)
技術統括:白神久吉
舞台:奥野さおり/楳輝涼子、伊藤義拳、菊池幸夫
照明:新島啓介、柴田晴香/山川剛、鈴木泉、高山智弘
音響:石丸耕一/出井稔師、加羽沢隆行
ゼネラルプロデューサー:高萩宏
プロデューサー:宮村恵子
制作:阿部晃久、吉田直美、黒田忍

久世星佳の出演する舞台を観るのは、いつ以来かな[exclamation&question]あ、2年ぶりらしい。(ソネブロ、検索すると結果が出るのが素晴らしい[るんるん]
しかも、ポスターがかっこ良すぎる、ということで期待値上がりまくり。(久世さんは、左上です[ぴかぴか(新しい)]

そんな、久世星佳から、舞台は始まる。

R3.jpg
[るんるん]男の子 女の子[るんるん]by郷ひろみを歌いながら登場。マジか[あせあせ(飛び散る汗)]
野田秀樹が著した戯曲「三代目、りちゃあど」は、1990年の夢の遊民社作品らしい。四半世紀以上前…[exclamation]なので、出てくる曲が古いのかもしれない。
この作品を、シンガポールの演出家オン・センケンが、国際的なキャストで構成したのが、今回の公演。
なんと、日本語英語インドネシア語で登場人物は台詞を言う。字幕は、日本語と英語が用意されていて、英語の台詞の時は、日本語字幕、インドネシア語の字幕の時は、日本語と英語字幕、日本語の台詞の時は、英語の字幕が出るようになっている。
台詞がわからない言語の時だけ、字幕を見ればいいのに、これを続けているうちに、日本語の台詞を聴きながら、一生懸命英語の字幕を読み始める自分に気づく。なぜだ[exclamation&question]
りちゃあど役は、上方歌舞伎のホープ、中村壱太郎なぜか京劇の女形スタイルで登場する。
彼の妻となるアン(同じ名前のシェイクスピアの妻も演じる)は、たきいみきなぜか、髭がある[あせあせ(飛び散る汗)]
てか、この美貌に髭が似合いすぎる[exclamation]初めて観た女優さんだったが、二人のアン(リチャード三世の妻となるアンと、シェークスピアの悪妻・アン)を見事に視覚化してくれていた。
この芝居、女優は男装、男優は女装して、役を演じている。でも、役自体は、女優は女役で、男優は男役だ。なんとも混乱する仕様だが、この性倒錯により、それぞれの人物に不思議な魅力が上乗せされているのは事実だ。
久世は、裁判長という名の狂言回しだが、白装束のパンツスタイル。世を拗ねたような投げやりな言動の時に、色気が噴出する。「どーでもいい」という台詞を言わせたい男役だ[キスマーク](アクセントは「ど」に。)あ、別に男役として演じているわけではないが。
ただ、そもそもの戯曲が難しく、シェイクスピアの「リチャードIII世」を知らないとまずついていけない。知った上で、シェイクスピアの妻がアンという名前だとか、そういう雑知識があって初めて作者の意図に気づけ、その上で、野田の言葉遊びを踏まえての…さらに三か国語+αである。
難しすぎるー[もうやだ~(悲しい顔)]
でも、客席から笑いが起きていたのは、それでも笑える部分があるからだろう。
私的には、頭使いすぎて、笑うまで行かなかった。言葉の壁も厚かった。でも、久世さんの歌聴けてうれしかった[るんるん]個人的には、「HOLLYWOOD LOVER」の中で歌われた、「Fallin'in Love Again」かな、あの曲を歌ってくれたのが嬉しかった。

あと、様々な世界の芸能がひとところに集まって、同じ物語を紡いでいる、というのもとてもワクワクした[黒ハート]
日本だけでも、歌舞伎の中村壱太郎、狂言の茂山童司、宝塚出身の久世星佳一堂に会するんだから。しかもシェイクスピアで。
そこに、シンガポールの女優・ジャニス・コー、インドネシアの女優・ヤヤン・C・ヌール、バリの影絵マスター・イ・カデック・ブディ・スティアワンというキャスティング…頭がハレーション起こしてもしょうがないか。
でもすごくアジアンな雰囲気で、ヨーロッパやアメリカでも受けそうな感じがした。

壱太郎くんが、御父上(中村鴈治郎)のぶっとびまくった安藤鐘道(NINAGAWA十二夜)を演じられる日がきっとくる、と思える好演だったことが嬉しい。(あえて、そこか…のシェイクスピアおたく)

“今日は何の日”
【12月4日】
北里柴三郎とベーリングが、破傷風とジフテリアの血清療法を発表した(1890=明治23年)。


「ゆっくり回る菊池」観劇 [┣演劇]

僕たちが好きだった川村紗也(2)
「ゆっくり回る菊池」

作・演出:青木秀樹(クロモリブデン)

舞台監督:櫻井健太郎、藤田有紀彦
舞台美術:坂本遼
音響:星野大輔(サウンドウィーズ)
音楽:岡田太郎(悪い芝居)
音響操作:櫻内憧海
照明:床田光世(クロモリブデン)
衣装:杉浦優(ザ・ボイス)
演出助手:入倉麻美、小林弘幸(新宿公社)、福名理穂(ぱぷりか)
稽古場代役:本折最強さとし

提携:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場

企画・製作:僕たちが好きだった川村紗也

ただいまキャラメルボックスから武者修行の旅に出ている多田直人さんを応援する観劇、今年最後は、こまばアゴラ劇場「ゆっくり回る菊池」。まあ、それぞれ1回ずつしか観劇していないので、どんだけ応援になっているかは謎ですが。
今年三度目のアゴラ劇場。短期間によく通ったな~[ダッシュ(走り出すさま)]秋~冬はとても足元の寒い劇場なので、アゴラに行くと腹が痛くなる…というジンクスが出来上がりつつあったのだが、そして、事実、当日、アゴラに行くと思っただけで、仕事中からお腹が痛かったのだが…
大丈夫でした[exclamation×2]
お腹痛いなんて感じる余裕がないほど、楽しかった[ひらめき]

演劇というのは、どこか記号でもいいのかな…と、今年、色々な演劇に出合ってきたせいか、考えるようになった。ぶっちゃけ、俳優が演じなくても、「伝わればいい」。伝わった後、観客がどう体内に落とし込むか、見る側からすると、そちらの方が重要なのかな、とさえ思い始めている。
ただ、発信する側からすれば、できるだけ、変化しない状態で伝わってほしい。そのために演出があり、いい役者が出演するのかな…と。逆を返すと、いい役者といい演出があれば、何でも伝わってしまう。「楽しければいいだけの舞台」だということも(笑)
今回の作品は、通称「ぼくかわ制作委員会」が作っている。
“ぼくかわ”とは、「僕たちが好きだった川村紗也」の略だ。つまり、本当の目的は、「川村紗也が魅力的になる舞台」なので、それが達成できれば、この企画はOKなんだ…ってなことも感じとれてしまった。

ま、そういう舞台を楽しむってのも、たまにはいいかな[exclamation&question]
これまでの経験したアゴラ劇場からすると、ちょっと肩透かしだけど[どんっ(衝撃)]

さて、演劇というのは、ホンモノらしく見えるニセモノでなければならない。
ラブシーンを本気ではじめられても困るし、人を傷つける場面もすべてニセモノじゃなきゃいけない。
そんな中、俳優の仕事は、どれだけ、ホントっぽく見せるか、そして伝えるべきことをちゃんと発信できるか、ということになる。
で、今回のお芝居は、話がめちゃくちゃです[爆弾]
とにかく、登場人物のリアクションが、「ぜったいありえない」ものばかりで、荒唐無稽のまま、最初から最後まで進んでいく。テンション高く、ひたすらあり得ない世界を突き進むすべての登場人物たち。
ぼっち観劇だったのに、爆笑に次ぐ爆笑でした。
ありがとう多田くん、ありがとう川村紗也[黒ハート]

では、出演者一言感想。

川村紗也(正岡マチ子)…ショックを受けると、すべての指先から銃弾を発射したようになってしまうヒロイン。
それもすごいんだけど、恋人が「人を殺した…」と告白したとたん、「結婚はどうなるの[exclamation&question]」となり、人に罪を押しつけましょう[exclamation×2]と言い出したり、そもそもチカンと付き合うとか、かなり変わったヒロイン。もちろん、妄想癖持ち。
これが、“僕たちが好きだった川村紗也”と、制作サイドが言っているんだから、かなりイッちゃった女優であることは間違いない。
見た目は、とってもおとなしい大和なでしこ風なのに…。このギャップがたまらなく魅力的だった[黒ハート]

多田直人(演劇集団キャラメルボックス)(川口碧郎)…居酒屋で、気が付いたら人を殺してた、と茫然と婚約者のもとを訪れる男。
そのわりに、死んだことを確認していないし、一緒に飲んでいた友人を放置してきている。さらに、その友人に罪を押しつけようという、あり得ない提案に乘る。いや、そもそもチカンである。
という人間のクズのような男なのに、なんか憎めないヤツ。そういうありえないシチュエーションのありえないキャラが、普通に存在している。シュールに、ではなく、リアルに。
その「普通に存在している」役作りが、多田の真骨頂。こんな多田に出会えたことが、今回の収穫だった。

枝元萌(ハイリンド)(正岡文子)…マチ子の姉。妹の婚約者の不祥事で、自分の見合いが壊れることだけを怖れている。妹のおそろしいアイデアを否定するどころか、ノリノリで電話を架けて、あなたね、人を殺したんですよ[exclamation×2]と決めつける辺り、法治国家って何[exclamation&question]レベル。このイカレたキャラを、立て板に水の関西弁で煙に巻く。
まるっとした体形もあって、キャラ立ちしまくり。テンポのあるセリフ回しといい、作品を大いに動かしていた。

幸田尚子(菊池富士子)…死んだとされる菊池の妻。警察沙汰にしたくないと言い出す。ありえないから。ヤクザの情婦か[exclamation&question]といういでたちでカタギ感ゼロ。そして、犯人を奴隷としてこき使うという意味不明な行動に出る。
ドスの効いたセリフ回しと美貌で、こちらもキャラ立ちまくり。日本には、こんなに多種多様な女優がいるのか…[exclamation]

折原アキラ(青年団)(佐分利三郎)…碧郎から罪をなすりつけられ、菊池という男を殺したと信じ、菊池家を訪れる。そして、妻の富士子の奴隷になるが、真実が明らかになっても、奴隷生活が愛しくて、富士子から離れないと粘る。
これまた、意味不明のキャラクター。奴隷になることで、自らのアイデンティティーを確立しようと企む。
そして、そういう情けないキャラにここまでハマっているというのが…素晴らしすぎる[ぴかぴか(新しい)]

根津茂尚(あひるなんちゃら)(船越雅一)…文子の見合い相手。カウンセラーみたいな仕事をしている。碧郎の起こした事件に、文子が隠そうとしているにもかかわらず、首を突っ込み続け、菊池家にも登場。何がしたいんだか、文子と結婚する気があるんだか、ないんだか、まるでわからない不思議キャラ炸裂。
いやー、普通に見えるけど変な人、という難しいキャラが、違和感なく存在していることが、ほんと怖い。(ほめてます)

吉増裕士(ナイロン100℃/リボルブ方式)(菊池雲平)…幽霊なんだか、生きてるんだか、わからない感じで登場するのだが、それが、ほんとに幽霊でもおかしくない雰囲気[exclamation]これはもうキャスティングの勝利かもしれない。真実が明らかになる独白も聞かせた。

“今日は何の日”
【11月23日】
富士山最後の大噴火(1707=宝永4年)。
(←旧暦。新暦では、12月16日となる。)
宝永山の誕生ですね[黒ハート]


朗読劇「季節が僕たちを連れ去ったあとに」観劇 [┣演劇]

ひとりぼっちのふたり
朗読劇「季節が僕たちを連れ去ったあとに」
―『寺山修司からの手紙』山田太一編(岩波文庫刊)より―

構成+演出:広田淳一(CRG/アマヤドリ)
照明松本大介
音響:角張正雄
衣裳:山崎朝子
ヘアメイク:小林雄美
舞台監督:白石英輔(クロスオーバー
舞台監督助手:鈴木政憲(クロスオーバー)
小道具:高津装飾美術

エグゼクティブ・プロデューサー:山本又一朗

なんとなく素敵な気がするけど、よく意味が分からないタイトル。まさに、この公演を象徴している。
このタイトルを知った時点で、この結果に気づくべきだった…[爆弾]
演劇界の鬼才、故・寺山修司と、人気シナリオライターの山田太一が、早稲田大学の同級生だった[exclamation]そして、二人の間には、若き日に思いの丈を書き連ねた往復書簡が存在した[exclamation]
という前宣伝を知った時、“その青春の時期に書かれた書簡を朗読するのかな…”と、漠然と考えていたのだが…。

実際のところ、寺山修司は、大学生の時にネフローゼに罹って治癒までに3年を要し、そのため、大学を中退している。
だから、寺山と山田が同級生として過ごした日々はとても短い。
しかし、共に映画や演劇に魅せられた二人は、ウマが合ったのだろう、寺山が中退して以降も、ずっと親交が続いていた。
とはいえ、松竹に入社した山田が助監督時代、寺山が外部の脚本家の先生として、女優に囲まれてブイブイいわせていたことがあったらしく、その辺から互いに気を遣った結果、少し関係は間遠になる。
が、山田が脚本家として独立してから寺山が亡くなるまでの間は、親交が復活していた。大学時代に寺山が好きだった女性と、(そうとは知らず)山田が結婚したこともあり、山田夫妻と、寺山がその死の直前に旧交を温め合う機会があったという。
私が朗読の対象だと考えていた往復書簡については、山田氏が数年前に一冊の本を上梓している。
その本によると、手紙のオリジナルは長い間山田氏が保管し、失念していたが、その存在に気づいた時、寺山のパートナーで、寺山作品のアーカイブ化に尽力している田中未知氏に渡し、その後返却された原本は、転居の際に紛失してしまったという。現在残っているのは、田中氏の手元のコピーだけなのだそうだ。
その分量が、おそらく一本の朗読劇を作るには少し足りないこと、いくら天才寺山修司の筆とはいえ、内容が闘病中の若者の個人的な書簡である…つまり、エンターテイメント作品としては、ちょっと難しい部分があること、まあ、あとは、いろんな大人の事情があったのかもしれないが、二人の男の往復書簡朗読作品ではなかった。
周辺に、六人も女がいた…[爆弾]開演前、置いてあるイスの数にビビったのは言うまでもない[あせあせ(飛び散る汗)]

最近、「朗読劇」「リーディング」を称する舞台が急増しているが、朗読劇の定義が広がり過ぎているんじゃないか、と危惧する。基本は、「ラヴ・レターズ」のような作品を朗読劇と呼ぶんだよね、と私は思っている。
そして、上演スタイルの問題もあるが、私は、朗読劇にすることで生まれる“効果”にも注目している。
普通、演劇というものは、演出家の指示のもと、出演者が稽古を重ねて上演するものだ。これが朗読劇になると、演出家も稽古も(基本的に)不要にできる、と私は考えている。
音楽で考えてみるとわかりやすい。独奏・二人セッションくらいなら、即興でもやれる。そして、即興の面白さ、というものは、たしかに存在する[ひらめき]そんな、その時だけの、特別な、なにかに惹かれる。
ただ、そんなセッション的な演劇って、逆に毎日やるもんじゃない、という気もしていて。
だから、とても特別なものだと思う。朗読劇というのは。
そのために、ある程度上演期間があるものは、キャストを入れ替えているんじゃないだろうか。
新鮮で、セッションで、演出と稽古が最低限の舞台…私は、そういうものを朗読劇だと認定したい。

そういう意味では、私がここ一年くらい観てきた中では、「しっぽのなかまたち」や「冷蔵庫のうえの人生」は、厳密な意味での「朗読劇」ではないと思う。あれは、演劇の形態として「リーディング」の体を採っているだけで、枠としては、朗読劇の中にない。
そして、今回の舞台も。
出演者が8人の時点で、それはもう「朗読劇」にならない。
演出しなければ、交通整理ができないからだ。

そして、6人の女性達は、たしかに演出に呼応しているようだ。
そんな中、主役の二人の俳優だけが、突然ぶっこまれている感があった。
どんだけ、演出指示受けて来たんだろう[exclamation&question]もしかして、ぶっつけ[exclamation&question]みたいな…[爆弾]
主役二人は、本当に日替わりで、それぞれ2公演×3人のトリプルキャストになっている。彼らだけの物語にするのなら、朗読劇的セッションも期待できたのに、周囲の6人の女子が演劇的な空間を作っているから、ものすごく違和感があった。
どんなふうに稽古が行われたのかはわからないが、作品世界から主役が浮く、ということを強く感じた。
トリプルキャストだから、個性を大事にしようとしたのかもしれない。
でも、ちゃんと稽古で心通わせてない状態で、「互いに爆笑して、笑いが止まらない」シーンなんて痛々しすぎる[ちっ(怒った顔)]
そういうのが、伝わって来てしまった。個性より、そっちの方が重要。すごく残念…[もうやだ~(悲しい顔)]

また、私のように、生前の寺山修司像を知っている世代からすると、今回の寺山修司にはおおいに違和感があった[exclamation×2]
寺山の津軽弁の印象と、彼の書き言葉が繋がらない。
これが寺山です、と言われても、「そんなひとだっけ[exclamation&question]」と思ってしまう。
若き日の、しかも、病気で死んでしまうかもしれない…という不安な日々に書いた私的な手紙だから、後年の寺山と繋がらないのは当然かもしれない。しかし、この作品では、朗読は後に、芝居に転じ、寺山が端正な標準語で山田夫妻と会話している。
それって、寺山修司じゃないから[むかっ(怒り)]

ほかにも、女優に「修司」という役を振って、寺山役の俳優が読む手紙の日付を言わせたりしているのも意味不明だし、田中未知役の女優の演技も固くて不安定な気がした。
その他の役は、要らないんじゃないか、としか思えない。

まあ、大人の事情が色々あるのだろうが…主催は、トライストーン・エンタテイメント。所属事務所に背中から撃たれたようなもんだな、これは。(久々、超辛口だな、オレ)

“今日は何の日”
【11月18日】
官営八幡製鉄所が操業を開始(1901=明治34年)。


「ゴドーを待ちながら」観劇 [┣演劇]

Kawai Project vol.3
こまばアゴラ劇場主催公演
「ゴドーを待ちながら」

作:サミュエル・ベケット
新訳・演出:河合祥一郎

照明富山貴之
音響:星野大輔(サウンドウィーズ)
舞台監督:小田史一(NON GATE THEATRE)
制作:久保庭尚子、伊藤香津代
制作協力:Real Heaven

芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)
企画制作:Kawai Project/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
協力:CAPI

不条理劇の傑作と言われる「ゴドーを待ちながら」を初めて観劇した。

こまばアゴラ劇場は9月に初めて行ったが、3ヶ月連続で行くことになりそう…ぶっちゃけ、居心地のいい劇場ではない。
狭い劇場につめっつめで座るので、けっこう疲れるし、たぶん冷えるのだと思う。上演中にトイレに行きたくなる。(しかし、行けない。つめっつめなので、上演中に外に出ることは不可能…[爆弾]

不条理劇だと、ずっと聞かされてきた。
しかし、今回の公演、不条理でもないんじゃないかな…と思えた。
もちろん、意味不明な部分は多いが、全体として、作者の言いたい方向は読める気がする。そして、私の読み解きが間違っていなければ、これって今の時代に上演する意味のある作品かもしれない、と思った。

舞台に出ずっぱりの二人、ヴラディーミル(原田大二郎)とエストラゴン(高山春夫)は、とても厳しい人生を送っている。おそらくは、死んだ方が楽なくらいに…。
傲慢な金持ちに見えるポッツォ(中山一朗)と、その奴隷のようなラッキー(稲葉能敬)もまた、二部では、目が見えなくなり、口がきけなくなって、一人では生きることができなくなる。
一幕と二幕は、同じような構成になっている。
ヴラディーミル(愛称ディディ)とエストラゴン(愛称ゴゥゴ)がずっと無意味な会話を続けている。二人は、貧しくて、年を取り過ぎていて、死のうとしても死ぬ方法さえ持ち合わせない。
そこへ、ポッツォとラッキーが現れて大騒ぎになる。やがて二人は去り、ディディのところに少年(宮下紘樹/古閑理)が現れ、「ゴドーさんは今日は来ない。明日、行く」と伝える。
結局、幕が開いた時の「ゴドーを待つ」状態は、幕が下りるまで解決しない。(とはいえ、今回、幕はない)
不条理劇と言われる所以だが、話が進んでいないわけではない。
むしろ、一幕より二幕は状態が悪化している気がする。それは、ディディとゴゥゴというよりは、ポッツォとラッキーの悲劇が挟まることで、そう感じるのかもしれない。ディディたちは、もうこれ以上不幸になりようがない感じだからこそ、ポッツォたちの存在が生きる。
そして、そんな、二人のところに来るゴドー(Godot)は、やはり、Godなのかな、トートなのかな…と思う。
私が観た時は、宮下紘樹くんが少年役だったのだが、まるで、神に愛された羊飼いの少年のような、聡明で利発な姿だった。
神の使いと言われても納得できる。
二人が待ち続けるゴドーが、神なら、死なら、「もう死んでもいいよ」と、そちらが思ってくれなければ、生き続けるしかない。どんなに最低のつらい時間だったとしても。そして、そんな、ゴドーを待ち続ける人生、というのが、少しずつ広がっているのではないか…私たちの身近な場所に。
世界の各地、貧しい場所で、救いを待つ人々のために、少しでも何かをすることができたら…と、数年前からユニセフなどに寄付をしている。でも、同じ日本で救いを待つ人々、それも新しい貧困者を救う方法って、まだ確立されていない気がして…そんなことまで、考えながらの観劇だった。
とはいえ、くすっと笑う場面あり、出演者の演技や狂気に引き込まれる瞬間あり、演出の河合さんのご挨拶あり、実は腹痛と戦いながらの観劇だったが、楽しく過ごすことができた。ありがとうございます[黒ハート]

「ゴドーを待ちながら」の日本での上演史は、1960年に遡る。もう50年以上も上演してるんですね。
上演記録が無料配布のプログラムに記載されていた。
1965年の劇団民藝の公演では、ディディ=宇野重吉、ゴゥゴ=米倉斉加年、ポッツォ=下条正巳、ラッキー=大滝秀治…という、とんでもないキャスト[exclamation×2]狂言の方が出演したものもあるし、女性キャストもある。演出も、蜷川幸雄、鴻上尚史、串田和美、森新太郎など、当代の人気演出家がチャレンジしているし、出演者も多士済々。ベケットの存命中は、音楽を入れる演出もあったようだ。(現在は、版権を管理する遺族により、音楽の使用は厳禁とされている。)

“今日は何の日”
【10月31日】
不況による困窮から、埼玉県秩父市の農民が蜂起、いわゆる秩父事件勃発(1884=明治17年)。