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ヘアフォード家のみなさん [┣公演内容の考察・検証]

ヘアフォード家のメンバーとして紹介されるみなさん。

マリア公爵夫人(桜咲彩花/仙名彩世
ジョン卿(芹香斗亜/瀬戸かずや
ジャッキー(柚香光/鳳月杏
ジェラルド水美舞斗/芹香斗亜
バターズビー卿(高翔みず希
バターズビー夫人(花野じゅりあ
ジャスパー卿(夕霧らい

このうちジョン卿は「古いお友達」という扱いなので一家の人間ではない。

しかし、関係性が紹介されない、バターズビー卿夫人は、「私達1ペニーだってもらえませんわ」と言っているところを見ると、血縁関係があるっぽい。

ジャスパー卿は、まったく謎の存在だ。

それにそもそも、この人たちの身分は、どうなってるの[exclamation&question]

と突然気になり、海外版の舞台HPを探してみた。で、出てきたのがこちらのサイト

マリアはもちろん、ディーン公爵夫人。未亡人と思われる。Duchess of Deneと、定冠詞がついてない(The Duchess…じゃない)のは、もしかしたら、既に息子に嫁がいるのかもしれない。(その場合は、正式なディーン公爵夫人(定冠詞が付く[ひらめき])が、長男の嫁のものになるため。ただ、前公爵の妻は、死ぬまで公爵夫人を名乗ることができる。)
でも、そしたら、ずいぶんなおばあちゃんなのでは[exclamation&question]とも考えられるが、友人のTさまが、「後妻ということもある」と助け船を出してくれました。なるほど[ひらめき]

ジョン卿は、Sir John Tremayneなので、準男爵かナイト爵。これじゃ、そもそも身分違いで、ヘアフォード伯爵令嬢(マリア)とは結婚できない。一族の人間なら、当然もっと上の身分のはずなので、伯爵家の果樹園の近くに住む豪農のジェントルマンの息子だったのかな…などと想像。そして、第一次世界大戦での活躍によってナイト爵に任じられたとか。
ジョン卿とマリアの複雑な恋愛模様は、それだけでひとつのドラマになりそう[黒ハート]

バターズビー卿は、Lord Battersbyなので、侯爵か、伯爵か、子爵か、男爵か、ということになる。
Lordと呼ばれるためには、色々と条件があるのだ。
親族ということは、妻のLady Battersbyが、マリアの妹なのかもしれない。(バターズビー卿自身が前伯爵の息子なら、ビルが見つかるまでの間、仮のヘアフォード伯爵になっているだろうから。)

ジャクリーンは、Lady Jacquelineなので、父親は、公爵か、侯爵か、伯爵か。
マリアの姪という設定だが、両親のどちらがマリアのきょうだいなのかは不明。そもそもは、マリアの娘という設定の公演もある。父親がヘアフォード伯爵の息子なら存命ではない。(バターズビー卿と同じ理由)母親がヘアフォード伯爵の娘なら、父親は存命でも大丈夫。

ジェラルドは、The Hon Jerald Bolingbokeなので、父親は伯爵で、本人は長男じゃないってとこかな。(The Honは、オナラブルという敬称の略で、Lordと呼ばれない身分。LordとHonorableの間には、細かい線引きがある。)
父親がヘアフォード伯爵の息子なら存命ではない。(バターズビー卿と同じ理由)母親がヘアフォード伯爵の娘なら、父親は存命でも大丈夫。

ジャスパー卿も、Sir Jasper Tringなので、準男爵かナイト爵。いったい、この一家にとってどういう関係の人なのか、この人に関しては全然わからない。

あれ、パーチェスターはセドリックじゃないみたいですね。(ここには、ハーバートと書いてある。)

“今日は何の日”
【7月18日】
鎌倉幕府第2代将軍源頼家が、幽閉先の修善寺で殺害される(1204=元久元年)。

跡継ぎ問題でしょうがなかったとはいえ、このことが、将軍が3代で終わる原因になってしまったかな。


別箱公演のフィナーレナンバー [┣公演内容の考察・検証]

宙組KAAT公演を観劇した。
作品については、別途ゆっくりと感想を述べるとして、フィナーレ・ナンバーについて、感じたことがあったので、その話を書いておきたい。

大劇場本公演は、組子全員が出演するし、ある程度「番手」に忠実な作りになる。まだ正確に序列が決まっていない生徒も学年順においしい役が振られるようになっている。ゆえに、逆になにかあったら「大抜擢」⇒「一気に下剋上」が確定することにもなる。
別箱公演は、もう少し自由な設定ができて、過去にバウ主演している生徒を、別の生徒の主演公演の小さな役で使うこともあったりする。(『風の次郎吉』の柚香光など。)そういう時、一瞬、序列も逆転したように見えたりする。(『風の次郎吉』を例にとると、公演2番手としてポスターに載っていたのは、瀬戸かずやだった。)これはおそらく、別箱公演に関しては、主演以外の序列は意味がない、という定義が裏で動いているからなのだろう。
ヒロインに関しても、トップコンビがそのまま別箱で主演しない限りは、かなり自由。主演者の相手役を模索するという動きが陰で動いていることはあるにせよ、ヒロインを演じたから、即トップ娘役候補になるなんてことは、決してない。

ただし、今現在、その娘役が劇団にどう認識されているか、というバロメータは存在するんだな、と思った。
それは、別箱公演のフィナーレ・ナンバーでの扱いだ。

お芝居の中で、ヒロインではなかったけど、重要な役を演じた娘役。どんなポジションで、どんな衣装で、誰と踊っていたか。
今回、ヒロインではないが重要な役を演じたのは、豊富なヒロイン経験を持つ伶美うららだ。
彼女は、フィナーレ・ナンバーにおいて、他の娘役とは差別化された衣装を一人だけ着用し、主演の真風涼帆と対等に歌い踊る場面を与えられていた。これは、宙組における伶美のポジションの高さを表している。
同じ宙組の昨年のバウホール公演で、難役を見事にものにして喝采を浴びた純矢ちとせは、フィナーレ・ナンバーでは、その他の娘役と同じ衣装で群舞を踊っていた。お芝居の役としての重要さは、あくまでも作品への貢献度であって、通常、ヒロイン以外の娘役は、フィナーレでは「その他大勢」の扱いになる。
だからこそ、このフィナーレでの伶美の破格の扱いは、注目に値する。
かつて、伶美は、「ロバート・キャパ」のフィナーレナンバーで、主演の凰稀かなめとデュエットダンスを踊ったが、衣装は他の娘役と同じもので、群舞の中に紛れてしまう…という扱いを受けた。トップ確定の凰稀のバウ公演での相手役ということで、すわ[exclamation×2]という声もあった中、この扱いは…[爆弾]と思っていると、やはりトップ娘役にはなれなかった。
そんな伶美が、時を経て、これだけの存在になっていることを思うと、感慨深い。
既に研8となった伶美なので、この先のことはわからないが、やはりただものではない、と強く感じる。次回公演でも伶美に注目したい。

一方、ヒロイン役の星風まどか。99期の若手ではあるが、一人だけまったく違う色の衣装を身にまとい、真風と二人きりのデュエットダンスタイムを設けてもらっていることから、トップ娘役としていつでも出動OKと感じた。
星風に関しては、完成度も高いし、あまり待たせない方がいいような気がしている。

“今日は何の日”
【5月22日】
細川護熙が日本新党を結成(1992=平成4年)。

かしちゃんが入団して初めてのお誕生日を迎えた時、こんなことが起きていたんですね。


やっぱり気になる生田シェイクスピア [┣公演内容の考察・検証]

宙組東京公演「Shakespeare」、出演者の熱演もあって、素晴らしい[exclamation]という声しか聴こえてこない。私のような感想は少数派なんだろうと思いつつ、なんかなー[爆弾]という気持ちは晴れない。
大劇場で観た時の、親子の確執だったり、夫婦の軋轢だったり…のややあっけない解消感は、出演者の演技が深まったことで、それほど気にならなくなったが、サブタイトル「空に満つるは、尽きせぬ言の葉」が、“ホントか[exclamation&question]という印象を受けるところは、いまだ解消しない。だって、脚本が変わっていないんだから[爆弾]
宝塚は、出演者ありきの舞台なので、脚本ありきで語るのは、あんまりメジャーな観劇法ではない。楽しかった、素晴らしかったという感想に水を差すつもりはさらさらなく、まあ、なんつーか、単なるシェイクスピアファンの愚痴なので、お気に召さなかったら、途中でUターンしてくださいませ。

ウィリアム・シェイクスピアの人生を舞台化する―そんな壮大な夢をかなえられるとしたら、どんな脚本を書くだろうか?
シェイクスピアの作品を劇中劇に入れたい!
まず、そう考えるだろう。でも、劇中劇は、そんなにたくさん入らない。芝居の尺の問題もある[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]
となると、次に考えるのは、シェイクスピア作品の台詞をできるだけちりばめたい!ということになる。
生田先生も、おそらくそういう思考を辿ったのじゃないかと思う。
そういうわけで、本作品の中にも、著名なシェイクスピア作品の台詞やシチュエーションがちりばめられている。
しかし、ここで、大きな問題が発生する。
生田先生は、シェイクスピア作品が時を越え、400年後の我々の心をも魅了するのは、『彼の言葉(台詞)が特別だから』という定義をしている。私もこれにはまったく同意。シェイクスピアの「言葉」には、力がある[exclamation×2]そして、シェイクスピア自身、自分の「言葉」に相当の自信を持っていたことは疑いがない。
「リチャード三世」「ジュリアス・シーザー」など、膨大な言葉の羅列により、人の心をひっくり返したり、「オセロー」や「冬物語」のように、言葉だけで火のないところに煙を立たせて人を死に追いやったり、「言葉」を操ることで、彼はなんでもやってのける。
シェイクスピアの「言葉」は、無双なのだ。
こんなことは、もちろん、シェイクスピア以外の誰にもなし得ない。

ところが、本作では、シェイクスピアテイストを作品のすみずみに行きわたらせようとするあまり、さまざまな登場人物が芝居の外側でシェイクスピアの台詞を口にする。自分の言葉として[爆弾]
これじゃ、シェイクスピアのすごさが伝わらないよ~[もうやだ~(悲しい顔)]
みんなが、詩人で役者になってる[exclamation]

さらに、せっかくの劇中劇が「言葉」に重きを置いていないため、素晴らしさが伝わりづらい。せめて「ロミオとジュリエット」のバルコニーの場面だけでも、そのまま小田島訳で1分半でいいから突っ走れなかったのか。あのジュリエットの独白だけで、シェイクスピアが400年残った意味がわかるのに、なんだあの省略は![むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]
まあね、ヒロインでもない純矢ちとせに、そんないい場面与えてる時間はなかったのかもしれない。かといって、史実版でみりおんに長々言わせるんじゃ意味がないし。それじゃ、アンが発案した台詞になっちゃうもんね…。
生田先生の苦悩は、察するに余りあるが、でも、あんな刈り込み方は、同じシェイクスピアファンとして、まったく納得いかないぞ[ちっ(怒った顔)]

まあそもそもシェイクスピア出奔に絡む回想シーンは、現実の過去と芝居がごっちゃになっているので、どっちがどうとも言い難いシーンではあるのだが、それゆえにシェイクスピアの「言葉」の素晴らしさが彼の作品から伝わるチャンスを奪っているように思う。
芝居としては面白いシーンだと思うので、どっちも取りに行くのは難しい、ということだろう。

また、劇中劇もすべてワンシーンで、「言葉」にフィーチャーしてはいないので、女王から反逆罪で死刑を言い渡された時、なぜ、サンサンプトンやエセックスが、自分達の命はともかく、シェイクスピアを殺すことは世界の損失とまで言えるのかが、ここまで提示されたものでは伝わらないのだ。
まあ、とはいえ、よく考えてみれば、ある架空の人物について、その人の才能をあれこれ述べ立てる場面があったとして、そこまでの経緯で彼の天才性がよくわからなかったとしても、そのシーンを見たら、ふーん天才なのね!と素直に思うかもしれないので、この辺も、シェイクスピアを愛する私から、シェイクスピアを愛する生田先生への無理な要望なのかもしれない。
でもね、せっかく没後400年メモリアルなんだから、もっとシェイクスピア作品を「言葉」込みで取り上げてほしかったな~[ふらふら]と思う。ファーストフォリオまで舞台装置にしてるんだから。

ちなみに、生田先生は、プログラムの作者言の中で、シェイクスピア自身を取り上げた先行作品として2本の映画を提示している。「恋に落ちたシェイクスピア」「もうひとりのシェイクスピア」という作品だ。
本作は、「もうひとりのシェイクスピア」に登場する魅力的なエピソードがいくつか採用されているし、「ロミオとジュリエット」の台詞が実体験からきているというプロットは、「恋に落ちたシェイクスピア」と同じ。決して真似しているわけではなく、先行作品へのオマージュなのだろうと思う。
サウサンプトンの見事な金髪は、まさに「もうひとりのシェイクスピア」に登場するヘンリー・リズリーそのもの。この作品では、サウサンプトンとエセックスの反乱から、エセックスの処刑、サウサンプトンの助命が描かれる。そして、生田先生の本作でも、「時の霊」役の(ちがう[あせあせ(飛び散る汗)])リチャード・バーベッジが、その後の二人の運命を説明する。
でも、エリザベス女王の前であんなに可愛くじゃれてた二人が、どうして反乱を起こすのか…少なくともこの芝居の中にはその要因は描かれていないので、それは、とっても蛇足だと思うんだな[爆弾]

と、とりあえず、言いたいことは言えたので、作品の感想は、シェイクスピアの言葉に関する部分には触れないようにしよーっと。

“今日は何の日”
【3月7日】
1948=昭和23年
のこの日、消防組織法が施行されたことから、「消防記念日」となりました。


「Ernest in Love」で突然の執事萌え? [┣公演内容の考察・検証]

2015年1月に東京国際フォーラムホールCで上演された「Ernest in Love」が、梅田芸術劇場メインホールと中日劇場で再演されることとなった。上演場所は違うが、再演には違いない。こういう“間をあけての再演”の場合、主なキャストを入れ替えることで、観客の「また観ようかな」気分を醸成するという手法が取られるのだが、そもそも、この作品、主要人物以外の“主なキャスト”がほとんどない。そこで、伝家の宝刀“役替り”が導入された。
2番手スター芹香斗亜が演じるアルジャノン役と彼の執事・レイン役を鳳月杏との役替りで、そしてサブヒロインとなるセシリー役を城妃美伶音くり寿の役替りで。その他、物語のキーになるミス・プリズム役に花野じゅりあを持ってくるなど、キャストの入れ替えは思った以上に多かったが、新たに投入された出演者が作品をフレッシュに蘇らせた舞台となった。

で、今回は、役替りで、アルジャノンとレインという大きな役を演じた鳳月から話を始めたい。
昨年の上演時は、一応、花組生ではあったが、月組東京公演が終わったばかりで、アーネスト・次郎吉どちらのチームにも入っていなかった。
そして、異動先の花組は、鳳月が入った公演から、2番手芹香、3番手柚香光…と、下級生がすでに番手スターをガッチリと務めることとなった[バッド(下向き矢印)]と思ったら、突然バウ主演が飛び込んでくる[グッド(上向き矢印)]など、鳳月のジェンヌ人生どっちに転ぶ予定なのか、まったく予想がつかない。
今回の2番手との役替り、そして、次のミーマイ・ジャッキー役、を考えると、本人の努力次第、運次第ということなのかもしれない。

さて、そんな鳳月のレイン役、今回、スター仕様になっている。
当然っちゃー、当然である。鳳月がアルジャノンを演じる時は、2番手スターの芹香がレインを演じる。それなりの役にしなければ、劇団の番手制度って何?ってことになる。
しかし、スター仕様になったといっても、大幅な変更があるわけではない。レインは、アルジャノンの執事であり、物語の解説役である。私は、先に芹香のレインを観たが、そこは、1年間の正2番手経験からか、「執事だけどスター」感満載だった。
で、それ以上、考えてはいなかったのだが、木村先生の細かい演出が、レインのスター性を支えているということが、今回、よくわかった。
常にスポットライトを当てるとか、執拗にセンターを取らせるとか、主要メンバーがいない場面では、レインがスターであることをこれでもか!と印象付ける形になっていた。なるほど[ひらめき]
こうして、スターに格上げされたレイン鳳月がどう演じるか[exclamation&question]というと、見事に執事だった[ぴかぴか(新しい)]

かつて「メイちゃんの執事」というバウ公演が上演された時も、そして腐女子を中心に執事ブームが起きても、NHKの海外ドラマ「ダウントン・アビー」がずっと高視聴率を続けていても、執事が気になったことはなかった[わーい(嬉しい顔)]
しかし、中日劇場からの帰り道、気がついたら、「執事」でネット検索している私[爆弾]
生まれて初めて、「執事」に興味を持った瞬間だった[exclamation×2]
さて、どうして、突然ネット検索なんかしちゃったか、というと、2幕冒頭の場面を観て、突然、

あー、そうか、執事って、恋愛も結婚もできないかもしれないんだなー[もうやだ~(悲しい顔)]

と、ひらめいちゃったから。
2幕で羽目を外したっぽいように、アバンチュールならあり得ても…と。
で、実際どうなんだろう?と気になって、検索しみたわけ。

結果…やっぱり当時の執事の人生は、だいたいそんな感じ。ご主人様第一、結婚して家を構えるなんてありえない…[たらーっ(汗)]

こんなふうに、台詞を越えて勝手に以心伝心しちゃう表現者…というと、私にとっては、大空祐飛さん以来なわけで、前例に従えば、8年後には、ちなつちゃんのところで立ったり座ったりしているかもしれない。それまで在団していることを祈るばかりだ[わーい(嬉しい顔)]

で、がぜん執事に興味が湧いてしまいながら、観劇した「Ernest in Love」。そうすると、こののどかな物語の外側の世界がすごく気になってくる。
そう、ヴィクトリア朝時代のイギリス。
ヴィクトリア女王の葬儀と共に20世紀の幕が開いた(1901年1月22日死去)。これ、覚えやすい英国史の目安です。
ヴィクトリア時代の英国は、大英帝国全盛期。そして、産業革命という変革期でもあった。都市部の人間の貧困のピークとして、フランス革命後のパリと、産業革命後のロンドンが挙げられる。切り裂きジャックが暗躍した時代でもあった。
「Ernest in Love」はそんな時代の物語なのだ。
えー、全然、そんな雰囲気ないじゃん[exclamation]
宝塚での初演から11年…今頃気づくこの現実。
なぜ、そんなことが気になるかといえば、これは、厳密に貴族様たちだけの物語ではないからだ。冒頭には、ロンドンの一般庶民が登場するし、2幕では、カントリーの農民たちが登場する。みんな、バイタリティーに溢れている。
どうやら、産業革命後のロンドンで貧困に喘いでいた人々は、「農村からロンドンへ働きに来た人々」であるらしい。子だくさんだったりして、農村ではよい暮らしができなかった人々が、産業革命後の好景気に期待してロンドンに出稼ぎにやって来る。そして資本家に毟り取られて食うや食わずの生活に陥るが、田舎に帰る金もない…という。
だから、生粋のロンドンっ子だったり、カントリーで優雅に暮らせる農民は、そんなに生活に困っていなかったということなのだろうか。
「Ernest in Love」のすぐ近くにありながら、決して登場しない、そんな現実にも、ちょっとだけ、想像の翼を広げながら、このハッピーな罪のないミュージカルを楽しみたいな…などと思った執事萌え初心者のワタクシなのでした。

今回、「執事」を検索ワードとして、あちこちのぞいた挙句、とってもお世話になったサイトがこちらです。

執事は…というか、貴族やお金持ちのお邸の中で働く男性は、背が高くてハンサムな方がいい、最低170cmはほしいそうです。そして、執事になれば、お仕着せの制服ではなく私服で主人に仕えるとか。ただ、主人との差を明らかにするためにわざと流行おくれの服装をするそうですよ[わーい(嬉しい顔)]

“今日は何の日”
【2月21日】
平清盛の孫であり、高倉天皇の子、言仁親王が践祚、安徳天皇となった(1180=治承4年)。
(←旧暦。新暦では3月18日となる。)

満1歳になったばかりで天皇になり、7歳の誕生日を迎える前に海に沈んだ安徳天皇。そういえば、スタジオライフの及川健さんが安徳天皇役を演じた能舞台を観に行ったことがあったな~。


享保の改革 [┣公演内容の考察・検証]

ケミ取り法から定免法への変更により、豊作だろうと凶作だろうと一定の年貢を納めることになった。
これは幕府にとって、毎年の予算を一定に組めるという点において有効であるばかりか、お代官様の差配次第なケミ取りは賄賂の温床となり、結果、税が中間蓄財されてしまうという弊害にNOを突きつけたことも大きい。
しかし、農民にとっては、この変更がよくなかった。
お代官様への差配部分はさておくと、これは、定率から定額への変更である。
三日月藩のような、土地の貧しい藩の農民は、もちろん、年貢を納めたら自分達の食べる米がない=餓死するしかない…という悲劇を産むが、もっと多くの米が取れる藩の農民も裕福にはなれなかった。
農民が、年貢を納め、自分達が食べる分を確保したら、余った米はどうするか。売ることになる。
年貢は、藩の武士たちの扶持(給料)になる。農民は、自給自足。残る工商身分の人々は、市場から米を買っていた。
ケミ取り法時代は、豊作の時は年貢も多く取れるので、それらは藩の倉庫に納められ、凶作の時用に備蓄された。
しかし、定免法となると、豊作でも一定量しか年貢に取られないので、残りの米が市場に出る。豊作だからといって工商の人々の人口が突然増えるわけではないので、当然、需要<供給…供給過多となった米の相場は下落するのだ。
というわけで、定免法下では、すべての農民が等しく貧乏になってしまった…らしい。貧しい農民は、凶作でも年貢を納めるため、満足に食事ができない。裕福な農民は、豊作でも米が高く売れないので貯えが遺せない…[爆弾][爆弾][爆弾]
江戸時代の三大改革は、この調子ですべて失敗に終わっている。
そもそも、贅沢を慎む(倹約する)という改革方法なので、幕藩の財政はそれで健全化するかもしれないが、市民の生活は、悪化してしまう。幕府や諸藩は冗費を抑え、その分、商業を活性化させて金回りをよくすればよかったのに[ひらめき]
できなかったんでしょうね、お侍さんは清貧で、商人は羽振りがいいなんて、幕府としては許せなかったんでしょう[ダッシュ(走り出すさま)]
今、日本の学校では、「士農工商」を教えないんだとか。士⇒農⇒工⇒商というカースト制度があったような印象を与えないため、(実際には、士⇒農・工・商という並立関係だったという研究結果がでているとか)だそうですが、こういう政策の失敗を見るにつけ、その原因に「士農工商」は絶対にあったと思うんですよね、私は。そこを教えるためにも、「士農工商」は外しちゃいけないワードだと思う。だいたい、「士農工商」を教えないと、「四民平等」も出てこないじゃん。
こういう改革を考える人の頭の中に(お芝居で言えば清興の中に)、士の次は農、という考え方があるから、まず農業改革に行く。で、工と商を意識しないから、経済が歪む。工・商があるから、貨幣経済が必要なんですよ。武士と農民しかいなかったら、物々交換でも成り立つんだから。でも実際には、この人たちの衣食住には、工・商は不可欠だったはず。家にも住まなきゃならないし、着物も着るでしょ?だけど、そこに目を向けない。だって、「下だから」。カーストではない。越えられない壁はない。でも、「農民の方が商人より上」っていうランクはあった。江戸時代の改革の失敗は、商業軽視が原因で、それは、「士農工商」という考え方に起因する、と、ここで大声で主張したいです。
商業の大切さは、明治時代になってようやく世間の認知するところとなり、日本は近代国家への道を歩み始める。もちろん江戸時代にも、先見の明があった偉い人もいるにはいる。が、なかなか周囲の理解は得られなかったようで…
享保の改革下、尾張藩主の徳川宗春は、商業を重視し、城下を豊かにすることに成功したものの、吉宗に蟄居を命じられてしまったとか。
士農工商というピラミッドで統治することにより、国家の安定化を図った徳川幕府は、その拠所を儒教(朱子学)に求めた。国の安定には役立ったかもしれないが、質素を重んじる儒教精神が、現実を歪めてしまったのかも…。

ロベスピエール [┣公演内容の考察・検証]

月組公演「1789」には、「ベルサイユのばら」にも登場する人物がたくさん出てくる。

その一人に、ロベスピエール(珠城りょう)がいる。凪七瑠海が演じるカミーユ・デムーランは、「ベルサイユのばら」に登場する架空の人物、ベルナール・シャトレのモデルである、と作者が明言している。
ロベスピエールとデムーランは、ルイ・ル・グラン学院の同級生だったと、「1789」でも語られている。

それを聞いて、主人公のロナン(龍真咲)が、勝手にブルジョワと断定し、責めるのだが…

そんなことない…ロベスピエールは貧乏だったはず…と、私は、ずっと、唇を噛んでいた。

「ベルサイユのばら」において、ベルナールは、ロベスピエールをこう語っている。ちょっと長いが引用させていただく。


ロベスピエールはな わずか6歳のとき 母に死に別れ
そしてすぐに 3人の妹や弟とともに 父親にさえ すてられて しまったんだ

いいか 6歳だぞ! わずか 6歳で
ロベスピエールは 親におきざりにされ……
お…幼い妹や 弟といっしょに 世の中にほうりだされたんだ
あたたかい いたわりも 愛も……
すべてを もぎとられてな!

頭がよかったため 奨学金をうけて ルイ・ル・グラン学院に 入学した彼は
いつも ひとりぽっちで…… ほかの子どものように 両親のやさしい 心づかいさえも うけられず
すりきれた ぼろぼろの服を着て……
お金もなく 外出もせずに……

よろこびといえば 勉強だけだった
はてしないほどの さびしさを 胸に満ちる涙を
マクシミリアン・マリー・イジドル・ド・ロベスピエールの血は とりつかれたように 学問へ 知識へ むけるしかなかった

おまえたちに 分かるか[exclamation&question]
どんなに彼が 孤独だったか
どんなに みすぼらしい ぼろ服が 子ども心に はずかしかったか

親にさえ すてられた 11歳の少年の
すりきれた ぼろ服につつまれた 胸の中に どんな思いが たぎっていたか

おまえら 貴族に わかるか[exclamation&question]


(以上、引用おわり)

私の知っているロベスピエールが、どんなに悲惨な少年時代を送ったか、知っていただきたくて、長々と引用させていただきました。
なお、ベルナールの台詞は、<愛蔵版>を参照しております。

言えよ、ロベスピエール[exclamation]

「勘違いしてるみたいだけど、俺だって相当、貧乏だったんだぜ」

そして、同級生、カミーユ・デムーランだって、公務員の息子で、奨学金をもらって、ルイ・ル・グラン学院に入学している。

みんな苦労している。決して、金持ちのボンボンの「革命ごっこ」ではないのだ。

こんな風に、ロベスピエールの証を立てたくて、胸が苦しくなってしまうのは、恋なのでしょうか[ハートたち(複数ハート)]


電流の衝撃 [┣公演内容の考察・検証]

その昔、クラッシュギャルズというスターがいた。ダンプ松本がバリバリのヒールだった頃、ベビーフェイスの大スターで、リングで歌も歌ったりしていた。(もう少し上の世代だと、ビューティー・ペアを思い浮かべていただけたらいいんではないかと…)

最近、友人から、そのクラッシュギャルズの一人、長与千種の話を聞いた。

ちこさん、今は何をしているのかな[exclamation&question]と思ったら、なんと、電流爆破マッチに出ていた[あせあせ(飛び散る汗)]

普通プロレスのリングの周囲には3本ロープがめぐらされていて、このロープに相手を振って戻ってきたところをラリアートとか、まあ、そんな技が出てくるのが、普通のプロレス。

しかし、電流爆破デスマッチは、そうではない。ロープの代わりに「有刺鉄線」がめぐらされている。しかも、その有刺鉄線に電流が流されている。触れたら電流が流れる。それだけじゃない。小型の爆薬があちこちに仕掛けられていて、そこに当たると爆発する。

初めてこのタイプのプロレスを見た時、これは、素人でも痛みがわかるな、と思った。
それだけじゃない。リングに近い席なら、爆風を感じる。火花が飛ぶ。痛みはひとごとではない。
この電流爆破というスタイルを確立したのは、大仁田厚。その大仁田が、なんと長与を電流爆破の世界に呼び寄せたらしい。

電流流すなんて、どこかの芝居の拷問かよ…と思ったけど、自ら電流爆破に挑む女もいるのね…[爆弾][爆弾][爆弾]

ちなみに、試合のタイトル、正確には、“ノーロープ有刺鉄線電流爆破~爆破バット&電気イス四面楚歌地獄デスマッチ”だそうで。
爆破バット以下は、想像できません…[バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)][バッド(下向き矢印)]

こちらに関係記事をリンクしてみました。よかったらどうぞ。

ちょっとだけ、電流爆破に挑むY・Oさんを想像してしまいました…いやいや、ポーリナは嫌がってたから…[たらーっ(汗)]


もやもや「死と乙女」~かんがえごとの束 その2~ [┣公演内容の考察・検証]

何度も書いているので、もう読者の皆様はよーくご存じだと思うが、私は超方向音痴なのです[もうやだ~(悲しい顔)]

なので、舞台上の位置関係だけでなく、口頭で説明されている「舞台に登場しないもの」の位置関係とかも、漠然と把握することができません。絵に描いたりして、自分を納得させないと、どうも座りが悪い…というか、気になっちゃったりしています。

今回の「死と乙女」では、ミランダ氏が乗ってきた車のことが、とっても気になっていました。

まず、そもそもの始まり。
大統領に呼ばれたジェラルドーは、そこから、週末を過ごすコテージに向かう途中、車がパンクしてしまった。
パンクした場所から、コテージまでは、とても歩けない距離…ということは、10キロくらいは離れているのだろう。そこで、ジェラルドーは、ミランダに拾われ、車を道路脇に放置したまま、帰宅する。

その晩、ミランダが訪れる。
彼は、家の前に車を横付けして、訪問している。

深夜、ポーリナは、ミランダを縛り上げると、車からジャッキを下して、ミランダの車に乗って出発。
たしか、家に電話はなく、電話を架けるためには、数キロ離れたガソリンスタンドまで行かなければならない…という設定だった。
ポーリナは、数キロ先のガソリンスタンドに行き、修理工場に電話を架ける。朝、できるだけ早く来てほしい…と。

そして、ミランダが訪問している…ということが、万一にも知られないように、家まで車に乗って戻らず、どこかに(たぶん茂みとかに)車を隠す。とはいえ、ポーリナは女なので、そんなに長距離を歩いて帰ってくるとは考えられない。おそらく家から1キロ以内の場所だろうと思う。

翌朝、修理工場の車が到着。ジェラルドーは、ジャッキを持って事故現場まで行き、修理をしてもらって、車で帰宅。

そして長い一夜が明けた翌日の昼、ジェラルドーは、ミランダの車のカギを持ち、自分の車でミランダの車のところに行き、彼の車の方を持ち帰る。
この時、ミランダが生きていれば、二人で車の隠し場所に行き、ミランダに車を返して、ジェラルドーは自分の車で戻ってくる。
ミランダが死んでいれば、ミランダの車に死体を積んで、車ごと死体を処理する。その時は、ポーリナも同乗し、まず、ジェラルドーの車の隠し場所(もとはミランダの車の隠し場所)まで行く。そこで2台に分乗して、死体を処分後、ジェラルドーの車で二人は帰宅する…という流れか。

なんか、頭の体操みたいな話だな[わーい(嬉しい顔)]


もやもや「死と乙女」~かんがえごとの束 その1~ [┣公演内容の考察・検証]

死と乙女千秋楽.jpg 

ようやく、眠れない日々が終わりました。

そんな今回の公演、放送禁止用語連発[exclamation×2](放送禁止用語だからといってすべてブログに書けない言葉というわけではないのですが…)

それにプラスして、性的な単語というのは、それだけを検索しているまったくお呼びでない人々を呼んでしまう可能性もあるので、これまでは、できるだけ避けるようにしてきたのですが、今回は、どうしても避けがたい感じです。

ただ、ネットは、お子様でも利用できるものなので、一応の手段として、「18歳以上の皆様へ」以降に今回の「かんがえごと」は記載させていただきますので、年齢確認の上、お読みくださるよう、宜しくお願いいたします。

このネタ、別に18禁じゃないし…っていう話は、また別記事にしますので、乙女の皆様はそちらをお待ちください。

クリエの劇場前の光るパネル、ここに写真が載るのがとても嬉しかったです。

クリエ看板.jpg

18歳以上の皆様へ


「familia」登場人物の背景 [┣公演内容の考察・検証]

「familia」を観ながら、エヴァ(大空祐飛)と父アニーバル(福井貴一)、そして、エヴァの父を里親とするフェルナンド(岸祐二)とその弟、アリソン(柳下大)の人間関係について、観劇しながら考察していた。本当の家族がいつ、どんな風に離れ離れになり、里親との親子関係がどんな風に結ばれたか…。それを時系列に並べたらどうなるのか、と。
年表を頭に作りながら、観ていた…というか。
それを、あらためて、考証してみたい。

まず、エヴァ。彼女は、生年月日が劇中で語られている。1943年4月25日生まれ、と。
エヴァは、生まれてすぐに教会に預けられた。
この舞台では、1973年の早春から1974年4月25日までが描かれているので、29歳~31歳のエヴァを見ることができる。

次にフェルナンド。彼は、生年月日はわからないものの、実の家族と別れた時と、養父に巡り会った時の年齢を劇中で語っている。
13歳で父を失い、直後に生活のため、母が再婚。義父からのDVを受けていたが、15歳で母が死に、孤児院へ。その時、弟のアリソンと別々の孤児院へ預けられている。孤児院に馴染めずにいたところ、わりとすぐに里親のアニーバル・モラエスに引き取られる。この養父の影響で軍に入り、内戦から7年ぶりに帰国した。階級は少佐。

フェルナンドの弟、アリソンは、「歩くのも覚束ない」(byエヴァ頃にエヴァの孤児院に引き取られた。その時、両親の名前の入ったペンダントを胸にしていたという。
歩くのも覚束ないというと、1歳くらいか[exclamation&question]
フェルナンドが同じ両親の名前の入ったペンダントを持っていることを考えると、フェルナンドとアリソンは同じ両親の下に生まれたと思われる。
同じ両親の下に生まれた兄弟なので、その年齢を一番近づけて考え、二人の実父が亡くなったのが、母の妊娠中と仮定する。するとフェルナンド14歳の時にアリソン誕生、翌年、1歳と少しで生き別れたことになり、エヴァの証言とも矛盾しない。

エヴァが「歩くのも覚束ない」アリソンが引き取られてきたことを覚えている…ということは、エヴァの方が数歳年長。
その年齢差は、劇中ではこれ以上語られないので、とりあえず、アリソンの年齢を推定してみたい。
アリソンの一本気な性格を見ると、23歳くらいかな…という気もするが、新聞社で記者として働いていたとしたら、大学も出なきゃならないだろうし、もう少し上かな[exclamation&question]ってことで、25歳くらい。エヴァがほぼ30歳なので、5歳差というのは、どうでしょう?6歳なら、アリソンが引き取られてきた日をハッキリと覚えていて不思議ではない。まあ、24~5歳って感じでしょうね。

アリソンが24~25歳だと、フェルナンドは14歳年上だから、38~39歳。軍での立場を考えると、そんなものかなぁ。独身なのは、アフリカでの7年のせいでしょう、たぶん。16歳くらいで引き取られたと考えると、アニーバルとの親子生活は、22~23年間ってことになる。(うち7年間は内戦があったけれど)

ということは、アニーバルがエヴァを捜し出せず、フェルナンドを引き取ったのが22~23年前。
その時、エヴァは7~8歳ですね。捜索を2年間と仮定すると、アニーバルが父の死によって、やっと恋人捜しに着手できたのは、エヴァが5~6歳の時。亡くなって子供が残されていたことを知ってショックを受けるには十分な年数だし、墓を捜し出して改葬する(おそらくリスボンの近くに改葬しているハズ。展開的に)ことを考えると、あまり時間が経ちすぎているのも不自然。そして友達がエヴァの誕生日を覚えていて、教会に聞いても孤児院情報がわからないという時間って思うと、5~6年というのは、なかなか信憑性があるような気がする。

これをもとに年表を作ると…

1935-36 フェルナンド誕生

1942 アニーバルとエヴァの母が恋に落ちる。アニーバル、リスボンに連れ戻される。

1943 エヴァ誕生。教会に預けられる。その後すぐ母が死去。

1947-48 アリソン誕生

1948-49 アニーバル、恋人の死とエヴァの誕生を知り、エヴァを捜し始める。フェルナンドとアリソンの父、死去。

1950-52 アニーバル、捜索を断念。フェルナンドとアリソンは別々の孤児院へ。アニーバル、フェルナンドを引き取る。

1973 エヴァ、リスボンへ

こんな流れになりました。ご観劇のファンの皆様、いかがでしょうか[exclamation&question]

【今日の言葉】~宝塚日めくりカレンダーより~
「あなたのお蔭で、この三週間が僕の一生のうちで一番楽しく幸福だつたといふ事を…………そして今後もこれ以上幸福な時はないでせう」byジエラル@『三つのワルツ』
作・演出:白井鐵造
花組 1938年

掲載されている写真は、宇知川朝子さん、草笛美子さんでした。


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